ヒロリン雑学ブログ

時事ネタや歴史、漫画アニメネタの雑学ブログです。

私見!明治維新!日本の夜明けを見たのは誰?その2

私見明治維新!日本の夜明けを見たのは誰?その2

さて、幕府が大挙してやってきたアメリカの4隻の蒸気船に対して、それまでのような強い交渉力を持たないと悟ったさまざまな立場の人達から”弱腰外交”という烙印を押されたために、ここから幕府には任せておけん!我らが攘夷(外国人)を討つべく行動をとる!として”攘夷浪士”という者が幅を利かせる世の中に変移していく。 その急先鋒となったのが、松下村塾出身の若い血気盛んな長州藩士であったことは言うまでもない。

幕府の弱腰を見下して、恭順の姿勢も見せなくなった。 そして、その機運というモノを見て、行き場のなかった浪人たちも便乗してきたが、それら浪士の活動はあまりにも卑劣だった。 攘夷浪士を名乗って、商家などに寄り「お前らを夷敵から守ってやるんだから、金出しな」という輩が増えた。 それに依って、時の京都守護職。松平中条容保は清川八郎にたぶらかされた幕府の命により、のちに「新撰組」を名乗る浪士集団を手元に置くことになるのだけれど、これは余談でした。

とにかく、長州藩士のあからさまな挑発行為や幕府を軽視する態度に業を煮やした将軍は長州征伐を合計2回も行う事になる。 一例として挙げるのであれば、長州藩士の高杉晋作は将軍の行列に向かって一本、道の違う高台から将軍に向かって「よう!征夷大将軍!」と公の道の上で、大衆の前で、将軍を愚弄するような態度を見せて、そのまま遁走して逃げおおせてしまい、将軍は籠の中で一人、悔し涙にくれたという。 このような体験を経て、将軍家は長州討伐を決意して、二度の長州討伐隊を派兵することになる。

つまり、長州藩としては、この戦いに勝利をする以外に藩の存命はないと知らされる結果となった。 だから日本の将来とかいうものは全くの無関係で、単に藩の存亡をかけて戦わざるを得なくなっただけである。

次に薩摩藩であるが、長州藩のようなことはなかったものの、中央から遠く離れた場所に領地をもらい治める事になったことを関ヶ原依頼胸中に深く沈めており、いつか時が来れば…。という思いでいたところに先に解説した生麦事件によって、幕府からの叱責を受けた。 その為に「幕府討つべし!」の気運も高まり、こちらも長州藩同様に若い藩士達が弾けて江戸に討ち入ろうとしていたのであるが、それを「まだ早い!」とする薩摩藩の重鎮たちの命に従って、その弾けた薩摩藩士たちを命がけで止めに行ったもう一組の薩摩藩士達がお互いに同藩士でありながらも壮絶な斬り合いとなって、なんとか若い藩士達の暴発を未然に防げたものの、この、世にいう「寺田屋事件」を機により一層の「幕府討つべし」という禍根を残した。

つまり、薩摩藩としては、長らくの遺恨を晴らすべく倒幕に向かったに過ぎず、日本の将来などという世界を視野に入れたような大義は持っていなかったのである。

では、その頃。土佐藩を見限って、脱藩した坂本龍馬は何をしていたのか? とりあえずは勉強していたのである。 剣の腕前は北辰一刀流の免許皆伝を持つ、めちゃ強い剣士であったが、海外事情にはそれほど詳しくはなかった。 その龍馬が当時身を寄せていた北辰一刀流の道場主の長子である千葉重太郎に付いて、奸賊である勝海舟を切る!という誘いに乗って勝の住居に行った折に、勝海舟の話すアメリカの話に感銘を受け「面白い!」と思ってその場で弟子入りをしてしまったという事もあって、所謂なんちゃって攘夷志士だった千葉重太郎勝海舟を殺害するに至らなかったという落ちのついたお話で、その後は勝に気に入られて様々な折に触れ、学びの場を与えられることになる。

余談になるけど、幕末の世において、勝海舟ほど忙しく幕府に召し抱えられたり、任を解かれて隠居生活をしたりと繰り返した人物はいない。 とにもかくにも勝海舟は幕府の都合により、表舞台に立ったり、また袖に控えさせられたりしていた人物であった。

とりあえず、今日も長くなったので、また続きは次の機会に…。