ヒロリン雑学ブログ

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私見!明治維新!日本の夜明けを見たのは誰?

私見明治維新!日本の夜明けを見たのは誰なんでしょうか?

「日本の夜明けは近いぜよ」って、よく見かけるフレーズですよね。 語尾の”ぜよ”という表現から土佐弁で、坂本龍馬が言ったように思っている人が多いと思いますが、残念ながらそんな史実はないし、資料もありません。

そもそも、明治維新は本当に日本国の将来を憂慮して行われた行動だったのだろうか? 違います!(きっぱり!) よく薩長土肥として、明治維新に貢献した藩名が挙げられていますが、土州と肥州は除外しても構わないのですね。 ほとんど何の役にも立っていません。最後の方で滑り込んだ程度の貢献しかしていないのですよ。

土佐に至っては、攘夷志士の活動が活発化した時には、武市半平太率いる「土佐勤皇党」を幕府にゴマをする為に全員を捕縛して、処刑してしまったという史実があります。 これによって土佐藩は実質的に維新の表舞台からしばらく姿を消すことになるのですよ。 長州藩長州藩の存亡をかけて幕府と戦ったにすぎず、薩摩藩は元々幕府に対して潜めていた藩丸ごとの私怨ともいえる思いで、幕府と戦っていたにすぎないのですね。最初の内は。

では、坂本龍馬は? この男が一番の曲者で、幕府を倒した方がいいという明確な意思は持っていたものの、それは勝海舟からアメリカの政治手法を聞いて、漁師の子でも木こりの子でも皆平等に国を統べる立場(大統領の事ね)になれるという事実に気が付いて、じゃあ、いちいち幕府に打診をしなければ何もできないという不便さを解消するために幕府を倒すという目標を持った「我儘」者である。 竜馬は元は商家の血筋である。それがなぜ武士に?というとお金を払って武士の身分を親だかお爺さんだかが買ったから武士として生まれた。 だから他の純粋たる武士とは違って、商売に興味があったし、江戸沖に停泊したペリーさんの4隻の蒸気船を見て「わしも、あんなデカい船で海を渡ってみたいのう」という憧れを持って見ていた。

明治維新のきっかけは、全てこのペリー来航から各藩それぞれの思惑の中で始まった。 長州藩に、吉田松陰という人がいた。この人が学者肌で、っていうか学者だったのですが…(^^;)ペリー来航をこれ幸いと「異国の現実をこの目で見てみたい」という思いに駆られてお気に停泊している蒸気船の中の一隻に忍び込んだものの乗組員に見つかって、幕府との交渉中だったペリーさんは、交渉がこじれるのを嫌がって松陰を幕府に突き出した。 余談だけど、この時松陰を幽閉していたのが、今の三軒茶屋に残る松陰神社であり、元は長州藩の江戸別邸の跡になる。 その後、松陰は身柄を長州藩に移されて、そこで松下村塾を開き、そこに集まったのが、倒幕の急先鋒と言ってもいい若い長州藩士たちだった。

桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞(あれ?げんずいって漢字はこれであってたっけ??)など見知った名前があるでしょ? 海外に興味を持っていたこれらの塾生が、松陰の講義を受けてその後はじけてしまって長州は存亡の危機を迎えることになるのです。

では、薩摩藩はどうであったのか? 有名なお話なので、知っている人も多いと思いますが、「生麦事件」というモノを薩摩藩士が起こします。 簡単にお話をすると。 薩摩藩大名行列を夷敵(外国人のこと)が道は外れていたものの馬上から降りることもなく、興味深げに眺めていた。 それを見咎め薩摩藩士の一人が「自分達の殿様が嗤われている」と思い込んで、馬上の異国人を斬り捨てた。

これが、幕府の怒り買うことになったのは、言うまでもない。 何故なら、幕府は穏便に諸外国と交渉をしたかったのだから、これを看過しては幕府の立場がなくってしまうのだから。 幕府としては、強く薩摩藩を罰したのだが、元々薩摩藩はずいぶん遠くに飛ばされたことに対する幕府への恨みがあったので、この出来事によって、さらに秘めたる恨みが募っていった。

そして、これらの幕府の行動が弱腰外交だと評判になってしまった。 それによって、攘夷浪士というモノを生んでしまう。 ここから倒幕の機運が高まっていくのだけど、今日は長くなったので、続きはまた今度書きますね。