ヒロリン雑学ブログ

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戦争という物は…

戦争という物は…

綺麗事じゃすまない

ロシアがウクライナに軍事侵攻して、約二カ月くらいになるのかな? 以来、あちこちでいろいろな議論がなされているのだけれど、どこか【上の空】のように【戦争】を語る人が多いように思う。 私が、子供の頃に【感じた】物とは、大きく【乖離(かいり)】しているのが、今回の【戦争】だ。

本当は、今朝(2022年4月17日)見た【日曜報道】という番組内での【橋下徹】と【河野太郎・元大臣】との様子についても語りたいのだけれど、ちょっと私の昔話をしたいと思います。

私は【第二次世界大戦】で、【アメリカ】にご丁寧に二つも【広島】と【長崎】に【原爆】を落とされて【負け】を認めた【昭和20年】から16年経った。昭和36年に生まれました。 という事は、私の両親は【戦時下】に【子供時代】を過ごしています。

母親が【昭和8年】に、父親が【昭和12年】に生まれているので、終戦時には【12歳】と【8歳】だった訳ですね。 だから【戦後生まれ】ではありますが、割と【戦争】というものは、今よりも【身近】なものでした。

両親が、そうでしたから【祖母】の世代は間違いなく【戦時中】は立派な大人で、【生き延びた】という事でしょう。

そのばあちゃんですが、割と近くに家があったので、保育園に通っていた頃から、ちょくちょくと遊びに行っていました。 当時は【車】なんて物は、ほぼ無くて【自転車】に乗せてもらって行ってたんですけどね。 ちなみに【ばあちゃん】というのは、父方の【祖母】になります。 うちの親父は、いろんな事情で【家を継ぐ】事になったお袋の婿(むこ)養子なんですよ。

よく遊びに行っていた、ばあちゃん家でしたが、親父の兄にあたる【子供】を二人、長男と次男になりますが、【戦争】で亡くしています。 【赤紙】で【徴兵】されて【出兵】し、俗にいう【名誉の戦士】を遂げてしまったのですね。 なので、ばあちゃんには【遺族年金】という物が【支給】されてました。 多分、当時としてもかなりの金額を支給されていたと思います。というのも、のちに家を継いでいる次女のおばさん(親父の姉)と三女のおばさん(親父の妹)の間で【遺族年金】を巡る【醜い争い】を目の当たりにするからなんですが…。

ちなみに長女のおばさんは、普通に嫁いで神奈川県の方に引っ越していました、 親父は四男なので、三男のお兄さんもいたのですが、この人は身体が弱かったらしくて確か病死しています。(戦時中か戦後かは不明。どちらにしても食べる物も満足になかった時代ですから【栄養失調】というのも関わっているかもしれません) 更に言えば、親父には弟がいますから【五男三女】の【8人兄弟】という事になりますね。 【戦時中】は【富国強兵】で【産めよ増やせよ】だったから、これでも【平均的】な【子供の数】だったのかな?

さて、ばあちゃんの家に遊びに行っていると、ある時間になるとばあちゃんは必ず仏壇の前に座って、蝋燭に火を灯しお線香を焚いて手には数珠を持って合唱すると【般若心経】を繰り(くり)出します。つまり唱える。という事なんですが。 何時かは憶えてませんけど、それは日課であり何曜日に行っても同じ時間に仏壇の前に座ります。

そうした影響からか、我が家にも仏壇はあったので、自然にお袋も何かあると仏壇の前に座って【般若心経】を唱えていました。 そんなもので私も小さい頃から、耳に馴染んだ【般若心経】の【抑揚】が好きで高校生くらいの時には【般若心経】を何も見なくても唱えられるようになっていました。 ちょっとした自慢になってましたね、当時は。

そんな事が【当たり前】の日常ではあったものの、【お経】の意味も何故唱えるのかという事に関しての【理由】もわからなかった当時です。 さすがに、なんとなくですがばあちゃんには聞きづらかったので、お袋に聞いたら【お金】は置いといて、「お父さんのお兄さんが戦死したから魂を慰める為なんよ」と教えてもらったり。

第二次世界大戦下】の日本では、かなり【悲惨】な話があります。 私は【倉敷市】の【水島】というところで、生まれ育ちましたが、戦時中には【水島】に【三菱重工】の【戦闘機】の【組み立て工場】があった為に、辺鄙(へんぴ)な場所なのに、今では【水島大空襲】とか呼ばれているような【大規模】な【空襲】もあったみたいです。

私が高校生になって、学校までの通学路として利用していた山肌には【防空壕(ぼうくうごう)】の跡だと言われていた【穴】が残ってましたし。 知っているだけでも、ごく近所の二か所に【防空壕跡】と言われるものがありましたね。