ヒロリン雑学ブログ

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アニメと哲学

アニメと哲学

アニメもマンガもね。

私はたまに、Twitterで、【アニメ作品】を二本並べて「こちらは哲学的要素があるからそちらよりも面白い」と発信することがあります。 しかし【哲学】といっても、私の言う【哲学】っていうのは、堅苦しい(かたくるしい)ものではなく、【物語】に【一本の芯】が、あるかなきかで使っています。 端的(たんてき)に【作品名】を出しちゃうと【鋼の錬金術師】と【鬼滅の刃】になります。 私は、自分勝手に【この二作品】を比較(ひかく)対象(たいしょう)に挙げてツイートしていました。

鋼の錬金術師】は、主人公が【錬金術師】なので、自然と、その根底には【一は全。全は一】とか哲学的な思考が盛り込まれています。 他にも挙げれば【陰(いん)と陽(よう)】とか、東洋の各仏教の【教え】の中に有るような物まで、取り込んで【物語】は進んでいきます。 そこには【自然の摂理(せつり)】【成り立ち】なども加わっていくので、【物語】の幅が広く、進んでいく事ができるのです。 だから【あからさまな嘘(うそ)】も【気にならない】し、それさえも楽しめる。 【鋼の連奇術師】で言えば、【オートメール(だったよね?)】などは【現実】には在りもしない存在であるけれど、【それ】があっての【世界観】なので、気にならない。 ちょっと考えても【メタル製の義手(ぎしゅ)や義足(ぎそく)】が存在するはずがない。 だって【重過ぎて(おもすぎて)】、それを装着(そうちゃく)した人は、歩くのにも義手を使うのにも、相当な力を使わなければならないから、使うの嫌(いや)になるもの。

しかも、【無機質(むきしつ)】な【メタルの義手】を【身体】に【装着】する時には、【神経(しんけい)をつなぐ】作業があるのだ。 どうやったら、単なる【鉄の塊(かたまり)】を【人体】に残る【神経】に接続できるのか? しかも、【接続】した後には、あたかも自分の手のように、自由自在に動かせるようになるのだから、この【からくり】は未だに謎である。 けれど、それを【些細(ささい)な】事に思わせて、気にしなくなるのは【物語】の持つ【パワー】だ。 【失くした弟の体】そして【自分の右腕と左足(だったと思う)】を【錬金術】によって取り戻そうとする【エルリック兄弟】の旅は、いろんな経験を積んで【実現可能】なものなのか? どうなのか? それさえもわかないまま、旅立った【兄弟】は、常に新しい事を捜して、【勉強】を積み重ねて【答】に辿り(たどり)つこうとする。

そうした中で「人とは何か?」「どこから来て、どこに行くのか?」 それを考えつつも、国ぐるみの【大きな謀略】に巻き込まれていく。 それが、この【アニメ】の【面白さ】だ。

実際(じっさい)のところ、私は【この作品】は【アニメ】しか観ていない。 原作の【マンガ】は読んでいないのであった。 だから【アニメ化】に向けて変更(へんこう)された部分があるのかどうかも、確かめようがない。 【大人買い】をするには【手元不如意(てもとふにょい)】な状態であったことは、言うまでもない(汗) 様々な諸事情により、現在も貯蓄に回さなければいけない状態なので、未だに買えていない。 ふっふっふ、悲しいなぁ。

それはともかく、【鋼の連奇術師】を比較対象に出した【アニメ】は【鬼滅の刃】であった。 これは以前にも書いたと思うけど、最初に【アニメ】を観た時に「失敗したかな?」と思ったほどである。 私は【3DCG】に【おんぶに抱っこ】して作られた【アニメ】はあまり好きじゃない。 【無機質なもの】の表現なら良いのだけれど、自然の物に対して【使う】のはどうしたものか?と思ってしまう。 【自然】であったり【人】であったりの【温もり(ぬくもり)】を感じなくなるからなんだけど、【ゲーム全盛(ぜんせい)】の現代では【ゲーム内】で使われているので、そんな違和感(いわかん)もないのかな? そう思うと、少しばかり悲しい。というか、寂しい。 それも【生き物(いきもの)の命】を【軽視(けいし)】する傾向にある現代の【問題点】じゃないのかな?そう思うと。本当に悲しくはなる。