ヒロリン雑学ブログ

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紆余曲折を経ての現在

紆余曲折を経ての現在

それで、なんとなくこの状態で良かったなぁ。と思える今日この頃。

高校を卒業して東京の専門学校に通うために上京したものの、新聞屋の奨学金制度では肝心の勉強をする暇がないと、親に相談したら父親が入院したと言う。
その理由がなんとも情けなく。

新聞配達の順路を覚える為に3月の半ばには上京していて、相談をしたのが6月半ばくらいだったので、約3カ月間。
それだけの間で父は私の身を心配するあまりストレスで内臓がいかれて入院したのだそうだ。
少しばかり情けない。
というか、その心情がよくわからない。

もっとも、のちに父は【何らかの発達障害】を持って、生まれ育ってきた人だったんだろうという事を知って「だからかぁ」とは思った。
その時にたまたまだろうけど、最初の就職先が、準社員というものを募集していて、ガリガリで身長も低かった私は「どうせ落とされる」とタカをくくって入社試験を受けたら、受かってしまった。

新聞屋で知り合った人の中に21歳で某大学の夜学に受かった人がいたので、そういう手段もあるんだ。
という事に気がついたから、取り敢えずは学費を貯める間働こうと入社した。
だから最初から辞める気満々でいたので、先輩だろうが上司だろうが怖い物はなかったから、可愛くない生意気なガキだったのではないかと思う。

で、学費を貯める事にしたのだけれど、私が通帳を持っていたら【あるだけのお金】を使ってしまう人だったので(それまでの反動か?新聞屋で得た給料はほぼ使い切る形だった)母親に預けたのが失敗だった。
何か月かが経って、母親に【通帳を見せて】と頼んだら、しぶしぶ見せてくれたのだけど、貯金額がない。

ないどころか数字の前に△マークがついている。
そんなものを今まで見た事がなかったので「これ、何?」と聞いたら借入金のマークだという。
親に働いたお金を使い込まれていた。
「通帳返せ」と怒るのは当たり前のことだと思うけど、この時に母親は薄ら見っともなく泣き叫んで、あろうことか私に怒り始める。

「ワシの金、ワシの金というやつにロクな者はいねー、どこまでお金に汚いんなら」←岡山弁だから(^_^;)
今になって考えると、母の4人姉妹の長女のおばさんが、お金にだらしがなかったから、それもあってのことかな?とは思うけど。
息子が働いて得たお金を「貯めてくれ」と言っているのに使い込んでおいて、その言い草はないだろ。
というのは今も思う。

結局は見っともない母親の姿を見たくなくて、そのまま預けっぱなしにしたのを後々後悔したのは言うまでもない。両親と共に私もポンコツな理由がこれである。
つまりは、進学を断念せざるを得なかった。
3年間お金を貯めて、今度はカリキュラムが自分で組める大学に進学しようと思っていたのに、終わった。

その後、結婚して嫁さんは両親のせいでパニック障害になり「原因から離れた方がいい」という地元の心療内科医のアドバイスを受けて、神奈川県の川崎に引っ越したことがあった。
実家の近くに引っ越しても、父親がスクーターで探し回って来てしまうからだし、母親の電話がひっきりなしで、しかも声がデカいものだから、それが聞こえた途端に嫁さんが寝込んでしまうようになったからだ。
この時が一番平和だったかもしれない。
ただ、この当時、川崎には、まだちゃんとした心療内科がなかった。
嫁さんの体調が良くならなかったので、起業しかけていたのだけれど営業ができないから嫁さんの両親を頼ろうと、岡山に帰ってきた。

父親の偏執狂的な忍耐力というのは大したもので、どこまで引っ越しを繰り返しても執拗に家を探し出してしまう。
だから、地元に帰ってから数年後、今度は横須賀に引っ越してみた。

都合3回、私個人では首都圏に出ていたのだけれど、なんだかんだで地元岡山に帰る羽目に陥っている。
やはり、首都圏に対する憧れというものはあって、その時には両親に対して恨みがましい気も持っていたけど。
ここ数年の世の中の状況を見ていれば、岡山にいて良かったなぁと思える。

気候変動の影響もあるけれど、やはりコロナが大きい。
コロナ蔓延初期の首都圏にはいなくて良かった。
行動制限などは窮屈この上ない。
岡山でも行動制限はあったけれど、首都圏ほどのコロナ陽性者の数には至らない。
それに田舎だから、多少は緩い。

結局は、61歳にもなると【人間万事塞翁が馬】という心境にもなるのだね。